偉人に学ぶ─ダメ人間の美学
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パブロ・ピカソ(1881〜1973)
┗スペイン生まれ。本人も覚えられなかったと言う本名は「パブロ・ディエゴ
 ・ホセ・フランチスコ・ド・ポール・ジャン・ネボムチェーノ・クリスバン
 ・クリスピアノ・ド・ラ・ンチシュ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソ」
 八歳で成熟した絵を描き、生涯に渡り子供らしさを追及したと言われる画家

ある日、美術教師であり画家でもある父は8歳の息子に言いました。
『りんごの絵を描いてごらん。』
描き上がった絵を見て、父は心底ガックリしてしまいます。
画家としての自分の人生はいったいなんだったのかと、肩を落とさずには
いられぬほど、幼い息子が描いたりんごは完璧でした。

狂いのないデッサン。完璧な模写、構図。普通の画家が一生かけて果たそうと
する仕事を、10歳そこそこの息子が いとも簡単にやってのけるのです。
いよいよバカバカしくなってしまった父は、13歳になった息子に画材を譲り
その後一切 絵筆を取ることはありませんでした。

幼き天才に道を譲った父は美術学校に口を利き、最高の教育を与えます。
しかし天才を前にしては教師とてただの凡人。15歳にして既に教わるべき
ことが残っていなかった巨匠は、学校をボイコットし、父からも巣立って
放浪の生活を望みました。洞窟で野宿をしながら農園で働く毎日。
その後、都会に戻っても貧民街や売春街を好んで歩いたと言います。

そしてパリへ。
いくら天才とて無名画家の生活はわびしいもの。
服を買う金もなく、1枚の洋服を恋人とかわるがわるに着ていたそうな。
しかしこんなにも仲むつまじく、心暖まる恋物語は最初だけ。
その後生涯に渡って繰り広げられる巨匠の女性遍歴はまさに鉄人級です。

惚れた女性は数知れず。妻を含めて四マタという時代もありました。
なんてったって最後の結婚が75歳の時ですもの。

「泣く女」等、身の回りの女性をモデルにした作品も多い巨匠ですが、
フランスでは[巨匠が描く女=不幸な女]という図式も定着していたらしく、
女性を侮辱したい時には『ピカソに描かれろ』と言ったとか言わないとか・・。

生涯現役、永遠無敵と思われていた巨匠にも 死は平等に訪れます。
やれることは全部やっちゃったしもういいや。と思ったのかもしれません。
自宅で急死したのは1973年。91歳の時のことでした。

2002.11.06 「まぐまぐ」より発行


ピ┃カ┃ソ┃の┃姿┃を┃見┃る┃
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ピカソと過ごしたある日の午後―コクトーが撮った29枚の写真(単行本)
コダックでパチリ。詩人コクトーの愉快な写真日記だそうだ。



■今日の余談─彫刻の森美術館にて
箱根彫刻の森美術館をご存知だろうか。
 広い。だだっ広い。美術館というよりはむしろ“歩いていると、たまに彫刻と
 出くわす公園”と言った方が正しいような気がする。

 真冬なんかは最悪である。
 美術品を見て心を豊かに。などという余裕はない。
 凍えながらも黙々と歩き、オアシスのように時折現れる屋内の展示場を
 ひたすら探し回るのである。
 
 じゃぁ、行かなきゃいいのに。と自分でも思うが、何故かここが好きだ。
 登山鉄道を乗り継いでいかなければならない不便さも何故か好きだ。
 
 そしてピカソの絵画を始めて観たのもここだった。しかし初対面の印象がない。
 どう思ったのか覚えてもいない。ただ「ふぅん」と思ったような気がする。
 ピカソの名が有名なあまり、何がどう来ても ふぅん。で終わったろうと思う。

 さほど興味もないまま、そう広くないピカソ館の中をグルグル回った。
 休憩を入れてまた観た。説明書きなんかも端まで読んだ。
 また寒い屋外に出るのが嫌だったのだ。しかし、そうこうするうちに、
 自然と興味が出てくるから不思議だ。
 結局、閉館する頃にはピカソ全集まで手に入れていた。
 
 寒さに震えさせた後、暖をとらせ、じわじわと強制的に興味を持たせる
 という荒業。きっとこの美術館の罠に違いないと思う。


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