偉人に学ぶ─ダメ人間の美学
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芥川 龍之介(1892〜1927)
┗東京生まれ。本名、同じ。
 夏目漱石の目に止まり文壇デビュー。新理知派・新思潮派と呼ばれた。
 “芥川文学賞“とは、芥川龍之介を記念し、死後に創設された文学賞。
 「羅生門」「鼻」「蜘蛛の糸」など有名作多数。

辰年の辰月辰日、辰の刻に生まれた巨匠は、その見事な辰並びから
龍之介と名づけられました。

ちなみにあの“金さん銀さん”と同じ年の生まれです。

で、“辰並び”の神童を授かった両親はといえば“厄並び”でした。
父は後厄43歳。母は大厄33歳。「大厄の子」として敬遠された巨匠は
向かいの教会に捨てられてしまいます。とはいっても、これは厄払いの
おまじないのようなもの。この時は誰かが拾うまで形式的に捨てられていたに
過ぎないのですが・・・その後、一年もしないうちに実の母が発狂。
子育てもままならなかったため、結局は母の実家、芥川家で育てられることに
なりました。12歳の時には養子縁組もしています。

なに不自由なく育てられ、そして学業の方も優秀な成績を修めました。
恋もしました。破れた恋もあれば実った恋もあり。結婚をし、
子宝にも恵まれ小説家としても成功・・。幸せな生活・・。
その影で、いつも心にあったのは死への不安と発狂の恐怖でした。
狂人の子はまた狂人なのではないか。憂える日々は続きます。

恋愛も憂える気質であったかどうか。妻の幼なじみと心中未遂なんてのも
やらかしています。かと思えば、匿名でエロ小説を書いてみたり・・。
「赤い帽子の女」という小説があるのですが、こちらの作品には性体験が
ビッチリ・バッチリ。ただ、これは巨匠が書いたと立証されているわけでは
ありません。ありませんがおそらく・・・書いたのでしょう。
憂えるインテリも人の子であります。

いつどんな時も「将来に対するただぼんやりとした不安」を抱えていた巨匠。
そんな35歳のある日、妻や子供と一緒に楽しい食事をすると、一人書斎に
こもり聖書を読みふけります。そして深夜の1時頃、睡眠薬を多量に飲み
寝室へ。自ら望んで“帰らぬ人”となりました。

「最も神の為に同情するのは、神には自殺の出来ないことである。」

2003.02.05 「まぐまぐ」より発行
2006.04 ma氏よりご指摘いただき、一部訂正しました。ありがとうございました


短┃編┃を┃楽┃し┃む┃
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芥川龍之介全集《1》(文庫)
芥川文学の何がいいかっちゅったら、短いのがいい。
サラッと読めて後からズドーン、またはジワジワと来るのがいいっす。
「鼻」「羅生門」ほか24篇を収録。



■今日の余談─文壇をめぐる人々
└└島崎藤村の私小説「新生」を読んだ 若き日の芥川龍之介が、
 その赤裸々な告白に眉をひそめたのは前号でもお伝えしたとおり。
 けれど、いくら眉をひそめようとも時代の主流は私小説。

 芥川龍之介はもちろんそんな時代の流れとは無縁です。
 複雑な生い立ちと実母の発狂・・・。私小説の題材は尽きなかったはず。
 けれどもそれらの生い立ちは後年まで公にすることはありませんでした。

 流行に関係なく、彼の才能にいち早く気づいたのが夏目漱石でした。
 「あなたは文壇で類のない作家になれます。」と惜しみなくエールを
 送りましたが芥川龍之介が24歳の時には死去しています。
 その約十年後に芥川龍之介も自殺・・。
 
 そして芥川龍之介の自殺にひどく感銘を受けたのが若き日の太宰治でした。
 太宰治の度重なる心中未遂&自殺未遂は芥川龍之介を師と仰いでか否か・・。

 ところで芥川龍之介の命日は7月24日で、生前の作品名にちなみ
 「河童忌」と呼ばれているそうです。
 ・・で、プロボクサー時代に「河童の清六」と呼ばれ、その後タレントに
 転向した“たこ八郎”氏の命日も同じ7月24日だそうです。

そ┃の┃人┃生┃を┃読┃む┃
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河童・或阿呆の一生(文庫)
自殺直後に発見され“敗北の文学”とも言われた自叙伝
「或阿呆の一生」ほか、 晩年の作品も多数収録。


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