「淀川のボン」として芸者の置屋に生まれた巨匠。
活動写真やら歌舞伎やら文楽やらが大好きだった両親は幼い巨匠を
毎日のように観劇に連れて回りました。
4歳で開眼し、小遣いに事欠くこともなかった巨匠は連日映画を観つづけ、
16歳の時にはで「映画に奉げる人生」を決意。旧制中学を卒業すると
早々に上京。映画雑誌の編集者の職を得ました。
生涯独身を決意したのもこの頃です。それは母親への愛情から出た
確固たる決意でした。子供を産む。ただその目的のためだけに
身売り同然で嫁がなくてはいけなかった母。遊び好き・女好きの夫に
苦労ばかりの人生を強いられた母。そんな母のせめてもの仇と思い
「僕は結婚せず。子供を作らず。淀川の血を絶やしてやる!」
と、若き日の巨匠は奮起した・・・そうです。(後年発表の自伝より)
なんたる美談!なんたる母子愛!と涙したいところですが、
巷に流れる別の噂に耳を貸さないわけにもいきません。
“ホモだから結婚は無理だった”。嗚呼!これもまた事実・・(多分)
ことあるごとに「映画と結婚した」とおっしゃっていた巨匠。
日曜洋画劇場の解説では、どんなつまらない映画でもどこか必ず
良いところを見つけ出して誉めるという姿勢を崩しませんでした。
どうにもこうにも誉めるところが見つからない場合は、舞台となった
お国柄のよもやま話でお茶を濁しつつ、視聴者を楽しませてくれました。
別れぎわはもちろんアレ。「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」
結婚相手が映画なら、離婚の心配もありません。
自他ともに認めるマザコンであり、結構なお年になっても母子一緒に
お風呂に入っていたという巨匠。愛しき母親が亡くなった後は
一人優雅にホテル住まい。テレビ東京に程近い全日空ホテル34階。
こちらを住居にしておりました。
「もうすぐ死にますから何でも聞いて下さい」は、晩年の口癖。
「映画館で映写が終わったのに、まだ座っている老人がいる。
従業員が終わりましたよと声をかけると、死んでいた」というのが
理想の死。
実際に死を迎えたのは病院のベットでしたが、死の訪れるその日まで
原稿を書き、元気に笑い、そしてビデオで映画を楽しんでいたそうです。
享年89歳。
日本を代表する映画監督、黒沢明の死から二ヵ月後のことでした。
2003.07.09 「まぐまぐ」より発行
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