娼婦であった母が子育てを放棄したため、わずか生後7ヶ月で生活保護局に
預けられることとなった巨匠。母親の名前と自らの出身地を知ったのは
21歳になってから。父親の身元は現在も不明のままです。
その後、職人の家に預けられてからは教育も受け、学年トップと
優秀な成績も残すものの、13歳の時には養父母のもとを離れ職業訓練校に入学。
・・・わずか10日で脱走。
このころから泥棒をちょいちょい働くようになり、15歳で少年院に
入れられてしまいます。もちろん脱走。そして勧奨金を目当てに軍隊に入隊。
厳しい軍隊暮らしが続くはずもなく、またもや脱走。
男娼や窃盗で身を立てながら、偽造パスポートを用いてヨーロッパ中を
放浪して回りました。逮捕されては逃げ、逃げては放浪の7年。
とうとう監獄入りが決まった時には12の容疑をかけられていました。
獄中生活の中で、文字を綴る事を覚えた巨匠は獄中にて3冊の自費出版を
実現させます。
この時点では終身禁固刑がほぼ確定していたものの、
ジャン・コクトーやサルトル、ピカソらの熱烈な働きかけにより、
異例の判決が下ります。なんと大統領の特赦を受けて釈放されたのです。
突然舞い降りた自由な身の上。両手放しで喜ぶのかと思いきや・・・
死刑を覚悟し、自殺未遂を繰り返してきた巨匠にとっては複雑な心境で
あったようです。巨匠にとっての悪事とは、息をすることであり、
魂を解放するための行為。巨匠にとっての監獄とは、悪と同化できる
唯一の場であったのかもしれません。
良かれと思って行った運動が、出すぎた行いであった事を知り、
ジャン・コクトーやサルトルはひどく落胆しました。
釈放から6年経ったある日、沈黙の日々を続けていた巨匠は、
ひどい抑鬱から睡眠薬を大量に飲み、意識不明で発見されました。
この自殺未遂を起こしたことによって逆にで生きるためのフンギリがついたのか、
日本を含む極東を旅したあと、戯曲の執筆や政治的運動などを精力的に開始します。
そして、これらの活動は死の直前まで続けられました。
喉頭癌の悪化により、パリのホテルで最期を迎えたのは76歳。
その亡骸は、かねてからの希望どうり、モロッコの墓地に眠ることとなりました。
そこは海に面する断崖にあり、監獄と売春宿に挟まれた小さな墓地だと
いうことです。
「わたしは英雄的な冒険を捜し求めていたのではなく、
最も美しい、また最も不幸な犯罪者たちとの同一化を
追い求めていたのだ」
2003.07.29 「まぐまぐ」より発行
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泥棒日記(文庫) 波乱万丈の人生は実体験に基づいています。聖なる悪の美学。 |